ラブールベニア菌について

杉山 恵一

最終更新日:2007年9月19日



 静岡県立自然史博物館の標本収蔵所に、近く私のラブールベニア菌のコレクションを受け入れていただくことになったが、一体それは何だというのが一般の人々の感想であろう。

 一般のひとびとだけでなく、菌類の研究者であってもこの名前を聞いてうなずく向きは多くないだろう。それほど特殊な菌類である。全世界でこの菌の専門家といえるのはせいぜい数十人に近いということでもその特殊性が知られるというものである。昆虫寄生菌というと、あるひとは「冬虫夏草」を思い起こすことであろう。これは、さまざまな昆虫の内部で菌糸を発達させ、やがてその宿主の命を奪うと、その死骸から小さなキノコを生じさせるといったものである。

 ラブールベニア菌は、人間が魚と近いといった程度には冬虫夏草に近いと言える分類学上の位置にある。大きな違いは、非常に小さな顕微鏡的存在であること、菌糸を宿主の体内に伸ばすことなく、したがって宿主の命を脅かすことはないということである。

 昆虫の体表に付着してごくわずかの栄養を得ているのである。このことから、ラブールベニア菌は冬虫夏草よりはるかに進化を遂げたグループであることが分かる。宿主を殺してしまうということは、いわば金の卵を産む鶏を殺すことに似て、けっして寄生者にとって有利なことではない。宿主と良好な関係を築いてこそ高度な寄生者であるといえるのである。

 さらにこの菌がより進化を遂げたものであるということの証拠として、その種数がおびただしい数に上ること、さらにそれらのすべてが、特定の昆虫にのみ寄生するという、いわゆる寄主特異性を示すということである。ご承知のように、昆虫は生物の中でもっとも多様化したもので、その種数は全生物の種の9割以上を占めるものであるが、その昆虫の進化の系統にそって分化してきたのがこのラブールベニア菌であると考えられるのである。
 
 しかし、この菌類の何よりの特徴は、その形態の奇妙な美しさとその限りない多様さであった。その一端を図によって示したが、それらにある種芸術的感興をそそられるのは決して私だけではないであろう。もしこれらの菌体がこの図のように大きなものであったとしたら、ちょっとした飾りになりそうである。しかし実際の大きさは、300〜500ミクロン、つまり1ミリの半分以下に過ぎない。当然肉眼では、その存在すら定かではない。

 このように多様な形態を持った菌類であるが、もちろん共通の特徴によって分類上のまとまりを保っているのである。まずその菌体は一方向に沿って細まり、その末端に黒化した足と呼ばれる器官を持っている。この器官によって昆虫の外骨格に付着し、微量の栄養を吸収しているのである。この足の上に発達した菌体の主要部分を托と呼ぶのであるが、この托の形の多様性が、この菌群の多様な形態の主因をなしているといってよい。図はそのごく一部を示すものである。

 この菌のライフサイクルは、胞子が宿主の体の表面に付着し、細胞分裂を始めるところからスタートする。このとき菌体の一端の宿主との接触部分に、先に述べた足が形成される。この器官の特殊な作用によって、宿主の固い外骨格の中から微量の栄養が吸収され、菌体の成長が可能となるのである。この栄養はきわめてわずかなものであるらしく、宿主の生命はおろか健康状態にもほとんど影響を及ぼさない。
 
 ラブールベニア菌の探索は、多くの昆虫を双眼顕微鏡下で検査することから始められる。寄生率が非常に低いので、何千匹という昆虫に当たることになる。昆虫は死んでいるもので差し支えない。アルコール漬けのものでも乾燥したものでもよい。

 発見した菌体は、柄つき針の先で足の部分を突いて昆虫の体表からはがし、特殊なマウント液を用いて永久プレパラートにする。観察は顕微鏡下で、300〜1000倍の倍率で行う。

 私は大学院から静岡大学時代の約35年間に、4000匹あまりの昆虫から70種ほどの新種を含むこの菌を発見し、それらを9000枚ほどのプレパラートとして保存した。それらをこのたび静岡県立自然誌博物館に寄贈することになったのである。

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登録日:2007年9月19日


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