総会記念講演
富士山と蝶

清 邦彦

最終更新日:2007年9月19日



 「蝶を好きになったのはなぜですか?」

 と聞かれることがありますが、なぜ?と言われても、私が子どもの頃は、虫採りは男の子の遊びとして特別なことではありませんでした。なぜ好きになった、というよりも、なぜそれを大人になるまで続けられたのか、です。

 小学校では、捕まえた虫に針を刺してラベルをつけて箱に並べれば、立派な理科の研究として認められていました。私は4年生で植物標本、5年で甲虫の標本、6年では蝶の鱗粉転写標本を出しました。

 本格的に蝶の採集を始めたのは中学に入ってからでした。そろそろ昆虫採集などが恥ずかしくなる年齢でした。そこで科学部、生物部に入ることで昆虫採集を続けました。採集旅行に出かけ、文化祭に標本を展示し、記録を部誌に載せれば、それで立派な研究として認められていました。昆虫採集は理科教育の中で市民権があったのです。

 今でも昆虫の好きな子ども、少年もいます。でもせっかくのその関心も、ゲームやコレクションの方向に行ってしまい、自然科学、自然史につながるような場がなくなってしまっています。自然史博物館の役目のひとつはここにもあるかと思います。

 私は富士山麓の富士宮市で育ちました。中学3年生の6月、富士山の西側山麓に広がる朝霧高原に初めての「遠征」をしました。当時の朝霧高原は草原が遠くまで続いていて、アサマシジミ、ギンイチモンジセセリなど何種類かの初めての蝶を採集して感動しました。

 7月には登山バスに乗って、今度は富士山の中腹に行ってみました。森林の中を一日中歩き続け、ミヤマカラスアゲハやヒメキマダラヒカゲなどを採集しました。しかしこの日採集した蝶はすべて他の場所でも採集できる蝶ばかりで、苦労して行くほどの所ではなかったと思いました。

 高校1年の夏、静岡昆虫同好会の採集会で再び朝霧高原に行きました。静岡市から来た高校生たちが夢中でヒメシロチョウを追いかけていました。富士宮市では普通に見られるこの蝶が静岡市にはいないのだそうです。この日の調査の目的だったヒョウモンチョウやホシチャバネセセリも、みな富士山麓特有の草原性の蝶でした。

 富士山は日本一高い山ですが、南アルプスには7種類もいる「高山蝶」が1種類もいません。それらの蝶は氷河時代に大陸から日本に広がったものです。やがて後氷期になり温暖化すると冷涼な高山・亜高山に逃げ込みましたが、富士山はこの頃も噴火活動を続けていたため侵入できませんでした。

 富士山の中腹は森林地帯で、森林性の蝶が生息しています。しかし南アルプスの方が地形の複雑さもあって森林も森林性の蝶も豊富なのです。

 では富士山を特徴づける蝶は何かと言いますと、朝霧高原などの火山性草原に生息する温帯の草原性の蝶なのです。火山の噴火によってできた草原も、やがては森林となってゆくでしょう。それを食い止めて草原を維持してきたのが放牧、採草、火入れといった人間のはたらきでした。

 日本の温帯草原性蝶類は富士山に限らず火山山麓によく分布しています。しかしよく調べてゆくと、甲府盆地周辺などでは扇状地や河岸段丘など河川周辺とも結びついていました。伊豆半島の狩野川の河川敷にギンイチモンジセセリが生息していることが発見されたことも驚きでした。河川周辺は氾濫の程度によって荒原から樹林までの多様な環境がつくられます。堤防などのなかった時代、川は自由に流路を変え、平野部にはさまざまな段階の植生が広がっていたことでしょう。

 私は、富士山の草原性蝶類のふるさとであるシベリアやモンゴルに行くようになりました。そこで見たのは、適度に放牧された家畜によって、蝶の生息に適した良質の草原が形成されていることでした。人々が生産活動を始める以前の世界は、野生の草食性哺乳類によってそのような草原が維持されてきたのではないかと考えるようになりました。

 氷河時代、海面が低下して陸続きとなった大陸から移動してきた草原性蝶類は、冷涼で乾燥した気候、河川の氾濫による植生の更新や草食動物の摂食によって維持された草原に広く生息していました。後氷期になってそれらのはたらき、生息環境は失われてきましたが、それを食い止めたのが人間による草原のカヤ場としての利用でした。

 私は富士山には分布しないギフチョウやウスバシロチョウにも関心を持ってきました。ギフチョウの幼虫はカンアオイ類という林床植物を食草とします。カンアオイは林の中がまだ明るい春の間に光を受けて育つという落葉樹林に適応した植物です。暖帯に落葉樹林があるのは、人々が薪炭林として落葉樹林を維持してきたからです。

 1978年、富士山には分布しないとされてきたウスバシロチョウが富士山から発見され、1995年には富士山麓全域に広まってしまいました。それは富士山の環境が変わってしまったことを意味していました。草原がカヤ場としての利用価値がなくなり、牧草地やレジャー施設に変えられてゆく一方で、採草が行われずに放置されるようにもなりました。ナンテンハギなど草丈の低い植物を食草としてきたアサマシジミなどから姿を消してきています。

 富士山麓の草原は人為作用によってできた草原、二次的な植生として低く評価されかねませんが、手を加えないのが自然保護とは限りません。伝統的な農林業による自然への介入は、火山噴火、河川の氾濫、野生草食獣などによる自然のはたらきの代償行為です。氷河時代といった過去の自然環境を人為的に現在まで維持してきたものです。

 富士山麓の草原の荒廃は、ギフチョウの生息する暖帯落葉樹林を含む里山の荒廃とも共通するもので、牛馬や薪や炭を使わなくなった人々の暮らしの変化がその背景にあります。

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登録日:2007年9月19日


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